https://www.youtube.com/watch?v=2LRSamHMGBI

ストリーミング配信全盛の今、そのリリーススピードはとんでもないことになっている。おまけにその再生回数を増やす施策として、いわゆる「ながら聴き」を助長するように20曲以上収録されたアルバムも最近では珍しくない(日本人アーティストにはあまり見られないが)。SpotifyやApple Musicをメインの音楽ツールとして利用している方の中には、ライブラリに追加しただけで聴けてないアルバムが沢山ある、という経験をしたことがある人は少なくないと思う。

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Kanye Westがフィジカル盤の価値に終わりを告げてから(6枚目のアルバム「Yeezus」は透明なCDケースに無地のシールが小さく貼ってあるだけ)丸6年が経つ。ストリーミング配信があっという間に音楽の聴き方を塗り替えてしまった。その間にもレコードやカセットテープの価値が再考されたり、ライブやマーチャンダイズがその市場を大きくしたりと、各々の理由で音楽の楽しみ方を模索してきた。

「Andless」=「Undress」

“続きのない”を意味するという「Andless」。おそらくは「Endless」”終わりのない”の否定から着想を得た造語だと捉える。そしてその根底には「Undress」”脱いでいく”があるという。

今まで対外的なイメージを気にして着膨れした僕自身の偽りの厚みを、一曲ごとに表現していくことで研ぎ澄ますように減らしていくという意味もあるんです。つまりはネガティブな一切のものを振りほどいて、解き放たれていく感覚というか、丸裸の等身大の姿を見せたいっていう思いでつけたんです。

—『HOUYHNHNM』「躍進への序章。DAICHI YAMAMOTOがエスケープするヒップホップの未来」より—

今作ではCDに服を着せたという。CDが売れない時代に、フィジカル盤に遊びを加えることの意味を考えたらきりがない。そんなことよりも、インタラクティブデザイナーとして広義での「アーティスト」であることを1stアルバムから見せつけたDaichi Yamamotoらしいやり方と、それを後押しするレーベルの寛大さに感激することが賢明だ。

「正直」であること

HIP-HOPにはリアリティショー的な側面がある。自分の出自をリリックに乗せたり、スターとして大成していく苦悩を作品として昇華していき、その時々の境遇や流行が重なりあった点の爆発及びその表現方法で評価が決まったりする。作品とアーティスト像を切り離すことが、難しい文化なのだ。HIP-HOPの本場では特にその側面が強い。我々には思いもよらないような生々しいリアルがそこにあり、逃げ道をスタジオに求め、先人たちが繋いできた「HIP-HOP」を進化させようと絶え間ないリレーが続いている。マンブルラッパーたちの台頭や、Lil Nas Xがゲイであることを告白したことも時代の流れであり、HIP-HOPの進化の一過程だ。そしてそのいずれも、紛れもないリアルである。

度々、日本語ラップは別の意味合いで物議の対象となる。清貧性や処女性を美徳とする文化の中では、金のチェーンネックレスが顰蹙を買うのは言うまでもない。また本場に対して「偽物」のレッテルを貼られ、真似ごとに過ぎないという声を浴びせられてきた歴史もある。確かにルーツは海の向こうにあり、想像に難くない「ぬるい」リアルがこちら側にある。それでもこの地でマイクを握る彼らは、その本場のアーティストたちの声に紛れもない赤い血を見たはずだ。果てしないリアルを、それにまつわる苦悩を伝えていく「ラップ」というツールを知り得たのだ。自分たちには自分たちの現実があって、悔しい歴史があって、それを作品として昇華していく方法を手に入れたに過ぎない。

Daichi Yamamoto/「Andless」はとても内省的なアルバムである。とにかく正直でいよう、という彼のアルバムに対する想いほどHIP-HOP的なものはない(一方で虚勢をはることもHIP-HOP的であるのだが)。誰もが自分を偽ることに躊躇せず、肥大化させたイメージを伴って注目されたがっているこの現代において、「正直」で嘘偽りのない自分を晒すことは多大なリスクも付き纏う。おまけにナルシズムを忌み嫌う風潮の強い我が国では、「自分に酔っている」というレッテルを貼って、蹴落とす傾向も強く根付いている。しかし、ありのままの自分をさらけ出すことは、液晶越しの評価=自分の価値と思っている人々には到達できない存在となりうる唯一にして崇高な方法なのだ。今作はその実践である。また先ほども述べた、CDに服を着せた「遊び」も改めて考えてみると、スマートフォンに固執する現代に対して一石を投じた彼なりの皮肉も込めた「遊び」、だったのかもしれないという憶測も生まれてくるのだ。

人間性の反映

シーンへの挨拶となる1stアルバムに、これだけの吐露を含むというのはどういうことか。ステレオタイプ的なHIP-HOPに対するマッチョイズムからはかけ離れた、むしろ共感すら覚える親しみを感じるのは私だけではないはずだ。少なくとも「正直」であるというアティチュードは十分に伝わって来る。

Ai Kuwabaraを迎えた1曲目とラスト曲を持って一まとまりのアルバムという体裁を保っていながらも、プレイリスト的な聴き方が好まれる現代において、間の好きな曲をピックして聴いて欲しいという彼の計らい。また同郷である中村佳穂を迎えた6曲目に見られる作りは、J-Popに普通に親しんできたという彼らしいアプローチと言えよう。HIP-HOPを通ってこなかった人たちからも広く親しまれるアルバムに仕上がっている。